あなたはつきつめて考えてみたのだろうか?


歓楽叶わぬ納骨堂庭園−「逃げちゃ駄目だ」と誰かは言ったとか(笑)


xura氏より「小説書きとしての私」に言及をいただきました。
要は「小説を書くなら嫌なことから逃げちゃダメだ、突き詰めて考えて糧にするのだ」ということだと思います。
この意見自体に関しては、正当性を感じます。
自分の周りで起こったことはすべて観察対象である、得るところとは得る。
それが例え「嫌い」の対象であっても。
小説と言わず、物書きとしては好ましいスタンスなのではないかと思います。


「鼻が赤くなりにくいティッシュです - 「嫌い」と思うことが嫌い」


言及されたこちらの記事が「私(feather_angel)が嫌いなものが多く、それらを排除しまくってる印象を与えるのは自分も感じていたことであり、それに関しては、追加記事で「そこまではしてない」という点「現実において数少ない嫌ってる人に対して嫌う理由を提示しない旨」も書きました。


xura氏の記事においては、はてブコメントにおいて「小説のネタにできる事は全ておもしろい事だと認
識。ネタとして昇華できないから「嫌う」事が可能」と書きました。


後日、xura氏は上に書いた私のはてブコメントへの追記を記事に施しました。
主旨は「私は違う。嫌いなものと向き合っている」でよろしいですか?
そうです。
私とxura氏では違います。特に「嫌い」の定義や扱いが違います。
xura氏はご自分の記事でも「小説書きというものは分からない」とおしゃっています。
xura氏は「分からない」からあのような記事を書いた。
それは理解できます。


xura氏が私がどのような小説書きであるかの情報は限りなく少ないはずです。
なぜなら、私はそういった情報を「はてな」では公開していないからです。


「fether_angelは物書きにも関わらず、自分の嫌いなものに排除して向き合わない人」であると、断定して記事を書いているxura氏は「fether_angelの小説書きとしてのスタンス」とどれだけ向き合ったの
でしょうか?
どれだけ情報を収集して「fether_angelは物書きにも関わらず自分の嫌いなものに排除して向き合わない人」と判断したのでしょうか?
「どんなものであれ自分の気持ちと向き合ってつきつめて考えなければいけない」とおっしゃるのなら「どんなもののであれ言及する対象には向き合ってつきめなければいけない」のではないでしょうか?


xura氏は、情報の少ない中、小説書きとしての私とどれだけ向き合えましたか?
「考えるのも不愉快」の言葉一つで小説書きとしての私を断定していませんか?
それは「向き合った」ことになるのでしょうか?
一言を根拠に浅薄に判断するのは非常に簡単なことです。
私にもできます。


例えばこんな風に。
「xura氏はコメント欄を開放しないけど、自分が書いたことにコメント欄であれこれ言われるのが嫌なんだろうなぁw」
これはあくまで例なので、コメント欄に関しては説明は結構です。
以前、コメント欄に関してxura氏が記事を書いていたことを覚えていますので、事由を確かめたければ自分で過去記事を探します。


私は追加記事においてもある程度「嫌い」に対する見解も書きました。
xura氏お記事においては、はてぶコメントも書きました。


こちらから開示する情報はここまでです。
なぜなら、私は自分の小説書きとしてのスタンスを表明する気がないからです。
小説書きとして評価(それは酷評であってもかまいません)されるべきものは、作品でありスタンスではないと思っているからです。
どんなスタンスで書こうともおもしろいものはおもしろい、おもしろくないものはおもしろくない。
そして、「おもしろい」「おもしろくない」の基準は読者側にあります。
たとえ、ここで、私が「小説書きとしては『嫌い』という感情にもきちんと向き合っています」という弁解を重ねても、一切弁解をしなくても生まれ出てくる作品は同じです。


あえて、一つだけ書くのなら。
「同人作家としての私」と「会社で生活している私」と「feather_angelとしてはてなで記事を書いている私」とは物事に対するスタンスは違うことも十分ありえるということです。
その可能性はお考えにならなかったのでしょうか?
しかし、当然ながら「feather_angel」としての情報しか与えられない人にとってはすべてが「=」であると考えてもおかしくはないでしょう。
小説書きではないxura氏が分からなかったとしても、そこに罪はない。


ただ、その場合は「feather_angelのその小説書きとしての態度はどうなのだ?」という名指し(個人ではなく「小説書き」が対象であるかもしれませんが)の記事を書くのではなく、「『私は』こういうスタンスでいる(もしくはいたい)」記事をあげる方が妥当なのではないだろうかと感じます。


どんな記事を書くのか、それはブロガーの自由です。
何をどのように書いてもかまいません。
しかし、言及をするのなら、ある程度検証を試みてからでもよいのではないかと私は思います。
もちろん、これは私の考えであり、強制ではありません。
ただし、言及された方としては「それは違うよ」と言う権利はあると思っているし、私からそう反論される覚悟を、xura氏はブロガーとしてお持ちだと思っています。
「小説家なら自分の気持ちをつきつめて考るべきだ」と言えるのなら、「ブロガーなら言及する相手に対してはつきつめて考えるべきだ」と言えるということです。


さて、蛇足ですが。
今回、私が物書きであることを前提の言及をいただいたのは非常にタイミングが悪かった。
先日、「はてな」を元に小説を書きたいと言ったことに対して、あらぬ方向から「自分は出すな」と言われまして。
作品を発表しなくてもあれこれ言われるのなら小説書きである自分を出すことをはてなではやめようと思ったばかりです。
でなければ、延々と小説の書き手としての自分を語ったかもしれません(笑)


書かないと言いながら、この記事でけっこう書いてるじゃんというつっこみはありです(笑)
こういう風に自分ではそんな必要はないと思っている反応してしまうという矛盾が生じてしまうのでそうならないよう元を断つために「小説書きとしては自分は出さないようにしよう」と考えた訳なのです。

お知らせ


xura氏がid:mind氏のコメントを支持していたので、一緒に返事がしようと思っていましたが、多くの記事やはてブコメントからfeather_angelをそれなりに理解し、なおかつ私から共感できる部分が多いmind氏が発した言葉とxura氏を同列に扱うのは不適切と感じましたので、mind氏へのお返事は、はてブコメントへのお返事に追記しました。