「嫌い」と思うことが嫌い(その1.5)


最近記事を書く際。
冗長に書くと言いたい事の焦点がぼけてしまうので、短く的確にを心がけている。
それを念頭のおいて書いた記事。


「嫌い」と思うことが嫌い


書き上げたものを読んで思った。
この記事だけ読んだら「私と言う人間はものすごく人のこと嫌ってそう」だと。


多分同じ印象を受けた少なくないだろう。
それはそれで実害はないからいいのだが*1はてブコメントや言及記事に反応する際に正しておかないと障害となるので、このあたりのことを少し詳しく書きたいと思う。


こういう発想した大本の記事はこちら。
嫌いな(ハテナの)ブロガーの ID を挙げようぜ!
*2
この記事を読んだ時に


嫌いな人っていたっけなぁ。
瞬間的に不快感を覚えることはあっても持続することはないなぁ。
特にネットだったら、目にしなければいいだけだしなぁ。



と、思ったのがきっかけで「ネットだったら目にしなければいいだけ」と記事にしたのが『「嫌い」と思うことが嫌い』


はてなを想定して極端な「表現例」*3もつけてみた。
そのすぐ上に「徹底的に排除」とあるのが「たくさん嫌っている人がいて、それらを排除しまくっている」という印象を植え付ける可能性が高いと思われる。
*4


なので、これを機に補足をさせていただく。
「徹底的に排除」に呼応する逆の行動の主な例は


「一度記事で自分を批判したブロガーに対して、いつ同じ事をされるか分からないのでチェックせずにはいられない」
「自分とは違う意見尾ブロガーが許せなくていつまでもコメント欄でぐちぐち粘着し続ける」


つまり、私からしてみれば、わざわざ嫌な思いをしに嫌いだと思ってる人に近づく人達が念頭にあったのである。
「徹底的に排除」=「嫌ならかかわりを持たなければいいのに」が一番近い。


記事を読んだ人と認識の違いがあるもう一つの要因として「嫌い」の定義の仕方にもあると思う。
あえて、「自分の嫌いの定義」を書かなかったのはうまくまとめられなかったからだ。
上に書いたようにネット上ではどうすれば嫌いになるのか分からないこともあった。
「氏ねばいいのに」と書かれても、相手の思考をトレースして「そう思うのも当然だな」と認識できたら、相手の思考そのものが私の頭の中に残り、「氏ねばいいのに」の言葉はどうでもいい。
「そんなことあるかーーーー!!」と怒りのエントリをあげた人に対しても「嫌い」というレッテルをあてはめることはできなかった。立場や感じ方が違うだけでは人を嫌いになることはできない。
「行為」を批判したくなることもあるが、それでブロガーそのものを嫌いになるかと言うとそれもありえない。


「嫌いだ」と思えるのはリアル社会の中にしかいなかった。
それも二人だけ。これは実害があるからというのが理由であるが、嫌う理由を書きたくないのは、書くのも不愉快というのももちろんあるけれど、
・自分が嫌ってる理由を表明することで嫌うことを正当化しようとする自分が嫌だ
・自分が被害者面するのが嫌だ
という理由もある。


どれかのはてブコメントに「相手を同調させたい、もしくは同一視したいという気持ちが裏切られた時に「嫌い」という感情が発生すると」と言うのを見かけたのだが*5、私は「人は人、自分は自分」とはっきり分けて考えるので、違ったら「違う」のレッテルを貼るだけ。
しかし、「違う」というレッテルを貼ったからと言って、嫌う訳ではない。


記事を短くしようと極端なことを書くと誤解をまねくことも多いが、はてブコメントなどで突込みが入るので、補足をする機会ができていいよね。


長くなったので。
はてブへのお返事は別記事で書きます。→書きました。
言及記事への返事も別記事で書きます。
↑記事が書けたらリンク張ります。

*1:なぜ実害がないかと言うと、私がそういう人間ではないということを知っている人は知ってるから

*2:こちらの記事には後続で記事が出ているので、そこから印象は変わって来ます。そちらの記事への言及は「その2」が出てから書くことを考えてみようと思っています

*3:あくまで分かりやすいと思ってつけた例でした。実施例ではなかったのだが、まあ、そうしてるように見えるよな、うん

*4:一部はてブコメントと言及記事を読んでそう感じるのは間違ってないと思う

*5:見かけたと思ったが、どこにあったか見つからない